INTERVIEW #01
世界平和なんて言わない、
目の前の人に笑って欲しい

株式会社わんピース
代表取締役 山口悠介 氏
『創業当初は、生地の名前すらちゃんと知らなかった』

─創業当初からバングラデシュと日本でビジネスをされていますが、バングラデシュを選んだ理由は何ですか? 何か繋がりがあったのでしょうか?

山口氏(以下、敬称略) 「元々、バングラデシュのことをよく知っていたか」というと、全くそんなことはありません。独立するにあたって最初に考えたことは、「今後、どの国が成長するだろうか」ということでした。前職がコンサルティング会社だったので、その視点を踏まえて検討した結果、候補となったのがバングラデシュだったんです。
インドとミャンマーの間に位置するバングラデシュは、人口密度が世界一高いと言われる国(※1)。2008年時点でバングラデシュには5,000件近いアパレル工場があり、総輸出額の75%を衣料品が占めていました(※2)。ZARAをはじめとした世界的アパレル企業の生産を請け負っていただけでなく、ユニクロがバングラデシュで生産を開始したのもこの時期です。
さすがに自分の工場を持つことは難しいので、「バングラデシュで製造した衣料品を日本の市場で売るOEMビジネスをする」と決めました。とは言えコネがないので、現地で出会った通訳とふたりで朝から晩まで工場を回ってサンプルをもらうところからのスタートです。そのサンプルを持って日本のアパレル企業へ営業に行くんですが、基本的な生地の名前すら知らなかったので、客先で呆れられることもよくありました(笑)

『次から次へと異文化の洗礼を受ける日々』

─世界銀行の2010年のデータによると、バングラデシュの「日額1.9ドル以下で暮らしている(極度の貧困)人口」は18.5%(※1)。既に世界最貧国からは脱していた時期ですが、カルチャーショックを受けることもあったのでは?

山口:最初は文化の違いに戸惑うことが多かったですね。まず、国民の85%以上がイスラム教徒(※3)なので、アルコールを飲みませんし、ラマダンと呼ばれる断食の期間もある。信心深い人は1日5回のお祈りも欠かしません。
さらに、身分制度の壁もあります。1971年にパキスタンから独立したバングラデシュでは、インドのカースト制度に似た階級があり、身分によって就ける職業が限られていたり、住む場所が決まっていたり。取引先に行ったとき、僕たちにはお茶が出されるのに現地スタッフにはお茶がない、なんてことも普通にあります。
例えばスタッフみんなでランチに行くとします。僕は日本にいるときと同じ感覚で、ドライバーも一緒に食事に誘います。でもそれは、現地では非常に珍しいこと。ドライバーは車で待っているのが当たり前で、雇い主と一緒に食事をするなんてことはまずないんです。

『20万枚売れたカットソーが救世主になった』

─しきたりも言葉も考え方も違う国同士を繋ぐビジネスは、想像するだけで大変そうですが、事業は順調だったんですか?

山口:全然、順調じゃなかったです。バングラデシュのこともアパレル業界のこともゼロから勉強しましたし、現地の言葉はわからないし、嘘をつかれたこともあるし。でも、独立したときに「会社を続けることで家族や従業員を守ろう。納税を通じて日本の役に立とう」と決めたんです。だから、やるしかなかった。既に家庭を持っていたので、その責任もあってひたすら次の一手を考えるしかなかったんです。文字通りの自転車操業ですよね。
ラッキーなことに、独立から数年後に僕の理念に共感してくれた金融機関が、身に余るほどの金額を融資してくれて。それとほぼ同じタイミングで、当社初のメガヒット商品が生まれたんです。そのカットソーは1年で20万枚売れて、創業時からの借金を一気に返済することができました。その頃から少しずつ従業員を増やして、今に至ります。

『手の届くところから、幸せにしたい』

─バングラデシュに学校をつくることが目標だと聞きましたが、どうして学校なんでしょう?

山口:創業間もないときに、バングラデシュの従業員から衝撃を受けたことがあるんです。彼は地方の村から首都であるダッカに働きに来ていました。僕が彼に渡していたお金は、決して低い水準ではありませんでしたが、遊んで暮らせるような高額でもありませんでした。金額にして日本円で月給が9000円、そのうちの7000円を仕送りしていたんです。驚きました。「初任給や初ボーナスをもらったとき、自分は7割ものお金を親のために使ったかな?」と自問自答しました。答えはもちろん、否です。
と同時に、彼ら家族の絆の強さを目の当たりにしました。それで考えたんです。「お金ではなく、彼のお母さんが自慢んできる息子にしてあげよう。」と。
その答えが、「学校をつくること」でした。発展途上のバングラデシュでは、仕事もさることながら、その土台となる教育の機会がまだまだ足りていません。彼の村に彼の名前がついた学校を建てたら、それはとても名誉なことなんじゃないかと。村の人たち、親戚、彼自身も、単に給与が上がるより喜んでくれるだろうし、価値のあることなんじゃないかと思いました。
僕は、「世界平和を目指す」なんて大それたことは言えません。でも自分が出会った目の前の人には笑っていて欲しいし、手の届くところから幸せにしたいんです。だから、家族と従業員を守って、ちゃんと納税して、バングラデシュのスタッフに仕事を提供したい。そしてゆくゆくは、バングラデシュに教育の機会を提供できるようになりたいんです。

『バングラデシュを襲った3,000億円分のキャンセル』

─バングラデシュのスタッフとの信頼関係も生まれ、事業も軌道に乗り始め、いざというタイミングでの新型コロナの流行でしたね。

山口:打撃が小さかったと言えば嘘になります。でも、当社の場合は現地に信頼できるスタッフがいて逐一近況が入ってくるので、いたずらに不安になることはありません。ただ、パンデミックから経済が立ち直りつつあった時期に、ロシア軍によるウクライナ侵攻が起きるとは考えていませんでしたし、それによって頻繁に電力供給が足りなくなることも当然予想していませんでした。
僕たちは日本企業向けの高品質、小ロット生産が強みなので、生産遅延の影響などもある程度限られていますし、都度状況を共有しているのでスケジュール調整が可能です。しかし、ほかのバングラデシュのアパレル工場はどこも大規模で、長期スパンで大量のロットをさばくのが常。ひとつの工場に1,000人以上働いているのが普通なんです。
なので、そうした大規模工場にとって、電力の供給不足は大幅な納期遅れに繋がります。結果、納期遅れを理由とした大量のキャンセルが発生しました。キャンセル総額は、3,000億円を超えると言われています。バングラデシュからの輸出は、L/Cと呼ばれる信用状決済が一般的。この場合、契約時に取り決めた一定の基準を満たしていないと、発注側が注文をキャンセルすることできるんです。
縫製工場のスタッフの多くは日雇いなので、多くの失業者が街に溢れました。やっとパンデミックの痛手から立ち直って来たと思ったら職を失い、今日、明日の食べ物に困る状況になってしまったんです。

『「なんとかしなくちゃ」と言われて初めて、本当に危機感を持った』

─そうした状況を見て、どんな風に感じましたか?
山口:大変なことが起きていると思いました。でも、日本とバングラデシュは元々の環境が違います。通常の停電が起きる頻度自体も違いますし、正社員で働いている人も少ない。前提条件が大きく違うんです。正直なところ、長年バングラデシュでビジネスをしているので慣れてきたというか、感覚が麻痺している部分がありました。
ただ、こういったことが起きているというのは、日本で出会う人たちに伝えなければと思っていて。バングラデシュに現地スタッフがいる企業は少ないですし、現地の状況をきちんと共有していくことは一次情報を持っている我々の使命のように感じていました。
そんな中、2023年2月頃に株式会社ウィファブリックの福屋社長に会ったんです。名刺交換程度の面識はありましたし、当社が「SMASELL(スマセル)」に出店していることもあってスタッフ同士の交流はありましたが、福屋さん本人とちゃんと話したのは初めてでした。僕としては、一次情報を共有する意識でそのときも話したんですが、間もなくして福屋さんから連絡があったんです。
「どれくらいの損害が出たのか、バングラデシュがどんな状況なのかを自分でも調べてみて、事実だということがわかった」という内容でした。僕が話したことをわざわざ調べ直して連絡をくれた人が初めてだったので、まずそれに驚きましたね。さらに、そのとき「これは、なんとかしなきゃならないね」と言われて、「そうか、これはヤバい状況なのか」とバングラデシュの現状に初めて本当に危機感を持ったんです。それ以降、バングラデシュで起きた変化は福屋さんにこまめに共有するようになりました。

『目の前の人から繋がり、広がる世界』

─2月の世間話がきっかけで、このプロジェクトが立ち上がったんですね。商品発売を前に、今はどんな気持ちですか?

山口:福屋社長と同じアパレルの領域で仕事をしていますが、当社の事業内容は全く異なります。これまで、衣料品の廃棄問題について話したことすらなかったので、僕を元々知っている人たちは「山口は突然、何を始めたんだ」と思っているでしょうね(笑)
福屋さんの人脈で、デザイナーの久保嘉男さんにデザインを手がけてもらえることになったり、20代の女性から絶大な支持を得る三條場夏海さんに加わってもらったり。あっという間にプロジェクトが立ち上がり、5月にはバングラデシュへ皆で視察に行きました。そして、立ち上げから約半年で商品のローンチという、凄いスピード感です。
新しいことを前にして、ワクワクしている自分がいます。当社では機械縫製がメインですが、今回のプロジェクトでは手縫いが必要になり、内職をしてくれる地方の女性に会いに行ったんです。初めて見た手仕事の現場は新鮮でしたし、目の前で「仕事があって嬉しい」と喜んでいる姿を見て僕も嬉しくなりました。
先ほどの学校の話ではないですが、地方ではまだ文房具ひとつとっても足りていません。そうした現状を見て、「日本で文房具を集めて寄付をしたら喜んでくれるかな?」と、新しい関わり方を考え始めたりもします。「笑顔にしたいと思う目の前の人」が増えました。

─山口社長、ありがとうございました。バングラデシュの習慣や価値観はそれとして受けとめ、一方で日本の価値観を無理矢理変えるわけでもない山口社長の気負わない姿勢を見ていると、これこそが多様性の尊重なのだろうなと感じます。
壮大な目標を掲げるのではなく、目の前の人、目の前のことにそのとき可能な形で対処していく。その真摯な姿勢が、ひとつの企業を生み、このプロジェクトを生み、ひいてはバングラデシュに新たな学校を生む…のかもしれません。
続く、シリーズ第2回では、山口社長からバトンを受け取った福屋社長がどう動いたのかに迫ります。

※1 JICA:Bangland(バングランド)基本情報
※2 Khondoker Abdul Mottaleb & Tetsushi Sonobe:An Inquiry into the Rapid Growth of the Garment Industry in Bangladesh
※3 在バングラデシュ日本国大使館:風俗・習慣・健康等

文:松山あれい
PHOENIX LAB. PROJECT
メンバー
  • 久保 嘉男
    yoshio kubo デザイナー
    groundfloor代表

  • 山口 悠介
    株式会社わんピース代表
     

  • 福屋 剛
    SMASELL
    WEFABRIK代表

  • 三條場 夏海
    Gajess
    ファッションインフルエンサー

  • 近藤 昌平
    RADIMO代表
      

今プロジェクトの支援について
SMASELLの理念である『ファッションをもっと楽しく持続可能なものに』実現に向けて、アパレル業界で課題となっている廃棄課題に対して業界全体で真摯に取組むことで、ファッション本来の楽しさを再生させるとともに、環境にも業界にも負荷をかけない持続可能な社会システムの実現を目指してまいります。
yoshiokubo × SMASELL
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